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ASTOR PIAZZOLLA
▲お茶目なピアソラ(中野サンプラザ楽屋にて)
1921年アルゼンチンのマルデルプラタに生まれ、3歳から16歳までをニューヨークで過ごし、その間にバンドネオンを手にする。1939年ごろよりプロの音楽家を志向、巨匠アニバル・トロイロの楽団、歌手の伴奏楽団を経て1946年には自身の楽団を結成。 一時クラシックの作曲家を目指し、1954年フランスに留学、ナディア・ブランジェに師事するも、ブランジェの助言により自らの音楽はタンゴであることを認識。 1955年のアルゼンチン帰国前後より、それまでのタンゴの常識を覆すような演奏活動を開始。 一時スランプに陥り、ニューヨークに逃げたりしていたが、1960年には、その後生涯の音楽活動の基盤となるスタイルである五重奏団(キンテート)を結成。 1968年には詩人オラシオ・フェレール、歌手アメリータ・バルタールと出会い、さらに表現の幅を広げる。1974年、ヨーロッパに拠点を移し、ジャズ、ロックの表現を取り入れた活動をおこなう。 1978年、アルゼンチンに戻りキンテート再結成。以後10年に渡り、安定し充実した活動を行う。82年以降計4回来日。1988年キンテート解散。心臓手術を受ける。 1989年六重奏(セステート)を結成するも、短期間で解散。 1990年パリにて脳血栓で倒れ、闘病むなしく1992年7月4日、ブエノスアイレスにて死去。


ゆかたのピアソラ(都ホテルにて)
初来日のピアソラと
(中野サンプラザ楽屋にて)

「都ホテルでくつろぐピアソラとスアレス・パスと−マテ茶をご馳走になりました。
'88 ミルバとのコンサートで来日−日本での最後のコンサートになりました」

ピアソラのサイン
-近い将来アストル・ピアソラのライバルとなる弘司へ すばらしい音楽に乾杯!-



ピアソラとの想い出
「若い頃からマエストロ、ピアソラの音楽性に感銘を受けていました。‘82年に初来日されたとき、アルゼンチン大使館のレセプションではじめてお目にかかり、マエストロの前で演奏する機会に恵まれました。そのときの緊張感は今でも忘れられません。ちょうど私の初のLPをリリースするところだったので、ホテルに訪ねて行って図々しくも聴いていただきました。それ以来、来日のたびにショッピングに食事にとご一緒し、ご自分のLPセットとかマテ茶の道具をお土産に頂いたりしました。妻の運転する小さな車にマエストロを乗せて都内を走りましたが、事故らなくて本当によかったと思います。普段のマエストロはとても気さくで茶目っけたっぷりなオジサンでした。でも、ひとたびステージにあがるともう別人です。マエストロの緊張感が他の4人のメンバーに伝わり、それが私達にも伝わってくるというすばらしいステージでした。私の作曲したRECORDACION(回想)は偉大なバンドネオン奏者であり、また、私が尊敬してやまないアニバル・トロイロとマエストロ、ピアソラに思いをはせた曲です。」